2009年12月15日

他人の意見を解釈する時に負う、己の責任とその苦について

抹香臭い愚考、ラクガキ。
耐性のない人は以下読まないでほしい。


この記事を書いた動機となった記事
大航海online、日本海表記を巡り公式BBS大荒れ

事実は必ずしも人を幸せにするものではない。
事実とは大抵、馬鹿によって 己の立場を優位にするために利用されるものだ。

特定アジアにシンパシーを持っている人々は、
たいてい儒教的価値観に囚われている。

師命(尊者、先人の命)に追順すべきという儒教的価値観による建前は
ある程度「建前としては立てて」守らなくてはならないが、金科玉条という訳でもなく
結局の所、他人の意見の中に己の求める真理はない。

正確にいえば、それが真理である、という事の決定権は他人の意見の中にはない。
たのむべきは他人の言葉のエッセンスであって
その言葉の中に宿る仏性であり、阿弥陀様であり、
その言葉との出会いの希少性であり
それを最後に信じる、と決めて信じるのは己自身であり、
己の中にわき上がる信じる心だからである。
間違ってもその他人自身やその他人の置いている立場を拠り所としてはならない。

そもそも釈迦如来が言ってるじゃないか、涅槃の時に。

「自らをともしびとし、自らをよりどころとして、他をよりどころとしてはならない。
法をともしびとし、法をよりどころとして、他をよりどころとしてはならない」

と。

(筆者の私も含めて)先人も同じ人間(衆生)なのであって、
基本的には愚者であり、神仏を超えることは出来ないのだから。


だいたい特定アジアって先人か?尊敬に値する者、か?
その前提はその時々とその問題によって変わるのであって
そこに対してその時々の判断を示さぬものは、
結局の所自分に刻み込まれている劣等感を
他人に押しつけているだけではないのか。



真宗は自力ではなく他力を本願とし
信心さえも阿弥陀様に与えられたものだとするが、
信心は与えられたとしても、受け取った自分がそこにおらず
無責任な立場でいていいわけではない。

なぜならば信心には報恩せねばならない。


親鸞聖人の教えでは、称名する(なむあみだぶつと称える)事は
救いを御仏から与えられた事への御恩報謝の手段だとする。

が、

真宗ではお仲間のことを御同胞、御同行という。
御同行というのは「同じ方向を向いて進む同志」である。

また、報恩講などの場でよく歌われる「恩徳讃(おんどくさん)」という宗教歌にも

「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」

とある。


阿弥陀様におまかせするから、といって
己という立場の責任を放棄して良いというわけでは全くない。
大事なのは教えをどう生かすかという姿勢である。

その姿勢を他者に非難されて、そこに他者との軋轢が生じたとしても、
そこに生まれる苦は業として背負っていかねばならない。
それは生老病死の四苦のうちの「生苦」の内なんだと、私はおもう。


人間、生まれる時も一人、死ぬ時も一人なのだというのに。
お浄土という物語が救って下さったとしても、それは自己満足に終わる。
衆生は(くどいようだが筆者の私も含めて)愚かなるが故に、
その程度の理解しかできないのだ。

大切なのは、ともすればその自己満足だけで終わりがちな世界観を
方便を使って世に広め、他者と物語を共有する事により
この地獄そのものの世に生きる寂しさ、辛さ、苦しみを、
少しでも紛らわせる事ではないのか。

真宗って存外ホスピタル、末期医療に似ている気がする。

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Posted by かた焼きそば  at 17:00 │Comments(0)愚かな禿の説話

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