2009年05月17日

救われた者に求められる「覚悟」。

どんなに時代が移り変わっても変えちゃいけないものってあるでしょ。

痛いニュースより
「15歳少女とセックスしたいが為に往復600kmを自転車で走破した26歳男逮捕」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1263555.html

17歳の女子高生と20歳の大学生が「みだらな行為」をして逮捕 みなさんはこれが妥当だと思いますか?
http://news.goo.ne.jp/hatake/20090514/kiji3287.html

日本の戦前は、
セックスをする=責任を取って結婚する という厳とした空気があったようです。
それは両性に覚悟を促し、
(一方的に男性に責任を取らせるというのは左翼の広めた誤解でしかありません)
安易な行いを戒めていました。

今は性に関してあけっぴろげな空気が広がって、
そういう雰囲気は失われております。

歴史を見るに、
左翼とコミンテルンのスパイ(中共)がアメリカの占領政策に乗っかって
日本の倫理観を破壊したようです。
ただそういう歴史的な背景をさておいても、
この状況を選び作り出したのはそこにいる人間だということです。
全員が悪いのです。

誰が犯人だという事はこの際棚上げしていいです。
自分はダメなんだという絶望感や、
あいつが悪いんだという他者への敵意は、
自分自身がやり直そうとする足の動きさえも止めてしまいます。

それではいけないのです。
まずは「南無阿弥陀仏(なむ あみだぶつ−阿弥陀様、お助けください)」
と、となえましょう。

阿弥陀様はいかなる衆生をも悪人をも、
煩悩具足のまま(悪行にまみれた、そのままの姿)でお救い下さいます。
救われた方は「今からでもやりなおせる」という事を知るでありましょう。

ただし阿弥陀様の他力(本願、通力のはたらき)は
衆生を堕落させるためのものではありません。

なむあみだぶつと唱え、帰依するということは
己の悪を自覚、自裁、自律するということであります。
そのうえで、「今からでもやりなおせる」という事を知る、ということです。

なぜならば、阿弥陀様のお他力に本願する
=阿弥陀様のお教えにすがる
=そのやりかたに習う、したがう
ということだからです。
阿弥陀様の御教えは、己の悪行に開き直るためのものではないのです。


反省なき者はいくらやり直してもただ泥沼に沈むのみであるとおもいますが
いかがでしょうか。


合掌。

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Posted by かた焼きそば  at 10:00 │Comments(0)愚かな禿の説話

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