2009年08月28日

未熟でも人に教えて良い、ただし気長に

「教える人」が非常に少ない気がしますので、一筆。

関連記事:
愚禿説法:ひとに教えて、愛を受け取ろう。



「一日の長がある」という慣用句があります。

例:「○○に関しては、彼に一日の長がある」


「他人が少し先を行っている」という意味の、
他人を尊敬する意味合いの言葉です。

1日であっても長は長で、尊いのです。
だから、例えば自分が未熟だとしても
相手より一日の長があれば、気楽に人に教えて良いのです。


現実世界においてはいろいろなしがらみがありますが
こと信on世界に関しては何の制約もありません。
現実世界でしがらみをかけて
教えようとする心を押さえつける事も、
私は間違った事だと思っています。

(ただ、押さえつけられるなら その押さえつけられる相手に
自分を認めさせるまで、自分を高めて認めてもらうという
事は必要だとは思いますが)


人はひとに教える時に一番成長します。
そして、情けは人のためならずです。
教え子が、逆にそのうち
自分に足りないところを教えてくれる事もあります。

教え子と師匠の間には、「教えている間は」一定の敬意が必要です。
それがほどよい緊張感を生み出すからです。
ただ、いったんその作業が終わったら
その関係の外にまで上下関係を持ち出すことは
できれば止めた方が良いと思います。


師匠が教え子に求めるものは、
「対等かつ助け合える仲間になってくれること」
であって、自分の影響力の下に組み敷く事ではない
のです。


自分が教えて相手をたかみに引き上げる。
引き上げた相手が、自分をまた高みに引き上げてくれる。
どこか山登り、ロッククライミングに似ていますね。
リポビタンDのCM。
「ファイトー!」「一発ァアアツ!!」

って、あるじゃないですか。ちょうどあんな感じです。

教えよう、という心、その行為は
お互いに助け合おうという姿勢、気概
であって
上から居丈高に押さえつける事は(時には必要ですが)
それそのものは教唆の本質ではありません。

したがって、見返りも求めてはなりません。
また、植物の芽が萌えるのには時間が掛かるように
人間だってある程度の時間が必要なのです。
情報化社会においては効率論が偏重されるあまり、
情報ばかりが先に立って人間自身の性質を顧みるということが
疎かになっています。

何事も気長に取り組みましょう。
キリスト教にいわく「得ようと思ったらまず与えよ」。
そして、他人は自分を映す鏡(万人幸福の栞17箇条うち第四条)です。

いつか、必ず良いことがある。
必ず、教えれば成長してくれる。
そう、相手を長く信じることが何よりも重要なのです。

某ゲームにて思ったチラ裏。(’_’


<余談>
ちなみに仏教の世界では、お仲間のことを
御同行
(おんどうぎょう
仏教用語で
「自分と同じ方向を向いて極楽往生へ歩む血盟の同志」。
「一心同体」に近いどぎつい意味合いの言葉です)

御同朋
(おんどうぼう
共に歩む仲間、というくらいの柔らかい意味)
と呼んだりします。


<余談2>
「美の壺」のバイオリンの回によれば、
日本のバイオリン職人はストラディバリウスなどの
名作を模倣し、それにより近づくように研鑽を重ねているそうです。

楽器のニス一つ塗るにも、繰り返し塗り重ねて本物に近づけ、
「使い込み感・すり減り感」を出すために
アルコールでニスを拭き取ったりしてるんだとか。
ダメージ加工してるジーンズに似てますねえ、どこか。

これから学び取れることは、
「定石を模倣することこそ上達への近道」という事と
「作者だけでなく、プレイヤーの二次解釈によっても
美(物事)は形作られる」

ということでしょうね。

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Posted by かた焼きそば  at 10:20 │Comments(0)愚かな禿の説話

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