2009年05月15日

愚禿説法:ひとに教えて、愛を受け取ろう。

ショック療法になるのか解りませんが
敢えて大袈裟な記事を試みに書きます。

当記事を読む前に下記記事を読んでおいてください。
書籍「うちのお寺は浄土真宗」/他力本願とは何か


織田さんの姿勢についていくらか個人的に指摘をしますが、
遠慮して何も言わないというのは本当の友誼ではないとおもうので
敢えてこの場を借りて所見を述べます。

直近の「この記事を書こう」と思った動機は今回のスポーツ合戦を見てですが
以前からこの手の「後進に教えない風潮」については
心中憂うものがありました。傲慢ですが風雲のために一筆書きたいと思います。
それこそ、誰得記事だからねコレ。

記事には脊椎反射せず、大人の対応をしていただきますようにお願いいたします。

関連記事:
未熟でも人に教えて良い、ただし気長に



金剛山のスポーツ合戦の時の話。

正直に言って織田さんの対応はグダグダだと思います。
昼陣完全放棄を約していたのに昨日1勝してしまうし
(不可抗力ではありましょうが)
夜の陣においても中級クエストのやり方やスポーツ合戦のルール等、
特定の人以外、誰も率先して教えよう、周知しようとしてない。

特定の人が来るまでは三好側でやりかたまで教えて対応している始末でしたし
防衛行為の禁止もあらかじめ約していたのに叱咤が掛かっていたり
1日目に対人勝手にやる徒党がでる等、
混迷麻の如しと言って差し支えない状況でした。


当然、あれこれ現場でも三好側から指摘が出ました。
元々このスポーツ合戦、織田さん側のご希望に沿った面が強いんですから
三好側で不満に思う子もいるわけです。

彼らをなだめるのも簡単なことでは無いのですから、
そこんとこご理解いただいて
今一度誠意を見せていただき、再発防止に
努めていただきたいものです。


さて。
一番問題なのは、織田側に自律して自国民の世話をしようという気風がない事。
他の勢力にも言えることなのかもしれませんが、
見る限りはこれが一番の大問題。

後進の指導に向かない人もいらっしゃいますが、
やってみようと言う人もでないのでは困ります。

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである。
成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる。 」
アラン こと エミール=オーギュスト・シャルティエ(フランス・哲学者) -「幸福論」より

「意志ある者が難局を克服すると確信する」麻生太郎
参考:【ニコニコ動画】「危機をチャンスに変えろ」(後編)〜予算編成の舞台裏


個人レベルでの怠慢(有る意味では後進への悲観)が積み重なって
全体の空気として「やらなくてもいいや」そうなっているように見えてなりません。
仲間意識が希薄なのか、面倒事に対して思考停止しているのかどうだか知りませんが、
少なくとも私に関わった限りは、そこは是正していただきたいと強く願うものです。


傲慢だとお思いでしょうがね、そんな状態を見て
私は直視できないほどの失望感、ついで脱力感に陥りました。
従って、こんな状態が続くんじゃ困るのです。姿勢を正していただきます。


「他力本願」というのが、「何もしない他人任せ」という意味ではなく
それは誤用であるという事は、この記事の最初にあげた
別記事にて引用つきで述べています。
ふまえた上で、「阿弥陀様」というのを
「お父さん」「お母さん」という語に置き換えてみてください。

我々は阿弥陀様に与えられている、生かされている立場なのは前提として、
そのお父さんお母さんは、
我々を今に至るまで放置して何もしなかったのでしょうか?
時々、自分は一人だけの力で今まで生きてきたかのように
錯覚してらっしゃる方がいますが、そんなケースは一つもないでしょう。
有形無形の形で教えを受け、何かを与えられ、恵まれてここまで来たはずです。


こういうと決まって捻くれた人が「打算で育てられたに過ぎない」
という趣旨の言葉を吐き捨てますが、
人と人とが関わるとき、効率的利害関係は
必ず発生しなければならないのか?私はそうは思いません。
貴方の父母はあなたから物理的に何かを得る得ないに関わらず、
貴方をそこまで見守り育ててきたのではないですか?


子供の笑顔をみて無条件に可愛いと思う感情は、
相手の存在によって与えられた物に他ならない。
つまりは、貴方のお父さんお母さんも
貴方自身から「希望」を授かっているのです。
あなたが居るから、がんばれる。

与え、与えられるという関係が成立する そういう意味では
全ての存在の中に仏様がいるといって差し支えないでしょう。
(別記事へリンク:「「なむあみだぶつ」−10秒で出来る帰依往生」)


ですから、貴方自身も有る程度学んだら
そのおしえを人に伝えなければならないのです。
貴方の父母や阿弥陀仏が示す「伝えよう」とする姿勢こそ、
貴方の一番まなぶべき事であるはずです。

その願いとはすなわち、自分の智慧を後進に伝えることによって
後進の繁栄をねがうものだからです。
彼らは本能的にそうしてきたのです。貴方もそれに習うべきです。
それがみほとけの愛に習い、みほとけの意志に叶うということなのです。

そしてそうすることによって、貴方自身も新しい出会いと愛を得て
幸せな信onライフ リアルライフを歩むことになると思いますよ。




愚禿(ぐとく):
「(僧籍がない以上)僧ではない、しかし、求道者である限り俗人ではない」の意。
浄土真宗の祖・親鸞聖人が師の法然聖人(浄土宗の祖)に連座して
僧籍を剥奪され、越後に流された時期以後に愚禿と自称している。
「禿」は、僧籍に身を置かない求道者をあらわすと言われる。
非僧非俗の立場を親鸞聖人はこの名前に込めた。
書籍「うちのお寺は浄土真宗」/他力本願とは何か

リンク先引用書籍より。

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Posted by かた焼きそば  at 16:04 │Comments(0)愚かな禿の説話

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