2010年01月27日

歎異抄12段「一、経釈をよみ学せざる輩~」より一部抜粋

※私流に要約して「不要な論争は避けろ」と言うこと。
以下本文、「続きを読む」以降は訳文。
ひろさちや著「すらすら読める歎異抄」より一部抜粋



一(ひとつ)、経釈(きょうしゃく)をよみ 学(がく)せざる輩(ともがら)、
往生不定(おうじょうふじょう)の由(よし)の事。
この条すこぶる不足言の義といひつべし。

他力真実の旨をを証せる もろもろの正教は、
本願を信じ、念仏を申さば仏になる、そのほかなにの学問かは
往生の要なるべきや。

(中略)

当時専修念仏【せんじゅねんぶつ】のひとと聖道門【しょうどうもん】のひと、
法論【ほうろん】をくはだてて、
我が宗こそ優れたれ、ひとの宗は劣りなりというほどに、
法敵も出で来たり、謗法【ほうぼう】もおこる。


これしかしながら、みづから我が法を破謗【はぼう】するにあらずや。
たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、
その宗あさしいやし と いふとも、

さらにあらそはずして、
われらがごとく下根(げこん)の凡夫、一文不通のものの、
信ずればたすかる由、

うけたまわりて信じさふらへば、
さらに上根(じょうこん)のひとのためにはいやしくとも、
われらがためには最上の法にて在(ましま)す。


たとひ自余の教法すぐれたりとも、
みづからがためには器量およばざればつとめがたし。
われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にて
おはしませば、御さまたげあるべからずとて、
にくひ気(にくいげ)せずば、たれのひとかありて、
あだをなすべきや。

かつは言争(言+争で1文字、ジョウと読む)論【言争 論-じょう ろん】
の所にはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの
証文さふらふにこそ。



故聖人のおほせには、
この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、
仏ときおかせたまひたることなれば、
われはすでに信じたてまつる。

また、ひとありてそしるにて、
仏説まことなりけりと、しられさふらう。
しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。



あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、
いかに信ずる人はあれども、
そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。


かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏のかねて信謗【しんぼう】ともにあるべきむねをしろしめて、
ひとのうたがひをあらせじと、
ときおかせたまふことをまうすなり、とこそさふらひしか。

(後略)


「教典・注釈書を読んで学問をしない人々は、
お浄土に往生できるとはかぎらない」
と一部の人が言いふらしているようだが、
これは全く論ずるにも足らない馬鹿げた言い分である。

他力の教えの真実を説いた諸経典類には、
阿弥陀仏の本願を信じてお念仏すれば
仏となることができる、とある。
それ以外に、いかなる学問が往生の為に
必要であろうか?(必要であるはずがない。)

(中略)

最近は(当時)、わが専修念仏の仲間が
聖道門【しょうどうもん-自力で悟りを得ようとする思想。
対義語は「浄土門」】の人々を相手に論争をし、
自分の宗門がすぐれており、
相手の宗門は劣っているというものだから、
法敵もでき、念仏に対する誹謗中傷もおこるのである。


しかしながらこれは、
自分で自分の教えをそしっている(おとしめている)事には
ならないか。

たとえ、他の宗派の人がよってたかって、
「念仏は能力のない者のためのものだ、その教えは浅く卑しい」
などと言(って非難されよう)おうとも、
(わたしたちは)少しも反論せずに(こういうべきである。)


「わたしたちのように能力の劣った凡夫、まったく文字を知らないような者でも、
信ずればたすかると教わって信じているのです。
たしかに能力のある優秀な人にとっては卑しくとも、
私たちのためには最上の教えなのです。

たとえこれ以外のすぐれた教えがあったとしても、
わたしたちは能力不足でそれを実践できません。
私も他人も含めて、全ての人をこの生死の苦しみの
世界から救ってやろう、というのが諸仏のご本意なのですから、
わたしたちが念仏の教えを信じているのを妨害しないで下さい」



と(こう)、静かに言えば、それでも攻撃してくる人が
いるだろうか。(いるはずがない。)
そのうえ、「論争のあるところには、様々な煩悩が付随する(つきまとう)。
思慮ある人は、そうした論争から遠ざかるべし」

と言われた証文だってあるのである。


故、親鸞聖人の教えによると
「この念仏の教えを信ずる人もいれば、またこれを謗【そし】る人もいる」
と、すでに仏が説き示して下さっており、しかもわたし(親鸞聖人)が
これを信じ、また他方にこれを謗る人がいるのだから、
たしかに仏の教えの真実であったことが納得できるのだ。

だから(謗る人がいるから)こそ、
往生はますますもって確実だと思うべきである。
逆に謗る人がなかったらば、いかに信ずる人があっても、
どうして謗る人がないのだろうかと、ちょっと不安になるのではないだろうか。

もっとも、こう言ったからとて、
どうしても人に謗られたいと言うのではない。
そうではなくて、信ずる者もあれば謗る者もあると
仏が前もって知らせて下さったのは、私たちが念仏の教えを
疑わずにすむように配慮して下さったのだと言っているのである。

(後略)

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Posted by かた焼きそば  at 20:22 │Comments(0)名言メモ

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